エヴァンス・ギャンビット①(Evans Gambit Declined)
お久しぶりです。生きています。
コロナ禍も少しずつですが、前よりは先行きを見て社会が歩き出しているのかと思います。
本当はStay Homeのピークのときこそ、マインドスポーツの普及を……!と頑張って更新出来たらよかったのですが……。
言い訳がましくなりますが、水無月の雨と共に排水溝へ流れていくことを願います。プライベートでは色々なことがあり、そのほとんどは悲しいことでした。一生分泣いたかもしれません。水無月とは私の涙腺が乾涸びることだったか、などと思いながら、何とか頭を使って何かをするというところまで来たので、書き記していこうと思います。
エヴァンス・ギャンビットです.ようやっと、前々回のジョッコ・ピアノの記事の約束を果たせそうですね.決して,目薬を買ったらエヴァンゲリオンとのコラボ商品だったからとか,そういうアレじゃないんですからね!余談ですが,私はブルベのデコっぱちで茶髪も似合わなければ何より眼鏡が似合わないので,真希波のような女の子に憧れます.
さてさて,お恥ずかしい話,時間が空き過ぎていて最早自分のブログですら興味深く読めてしまうというこの現象.ちょうどいい記事があったのでクオートしてきました.
1. e4 e5 2. Nf3 Nc6 3. Bc4と進んだところはイタリアン・ゲームです.エヴァンス・ギャンビットはイタリアンのひとつの変化という位置づけになるわけですね.駒効率という点からいって,イタリアン・ゲームの勉強は最高のテキストです.学び初めの頃はイタリアンに悩まされ,少し上達してきたくらいでやはりイタリアンに悩まされ,結構長くやってきたつもりでもまだイタリアンに悩まされますが,なんとも奥が深いものですね.
黒の3手目として3. ... Nf6(ツー・ナイツ・ディフェンス)や3. ... Be7(ハンガリアン・ディフェンス)も魅力的ですが,ここでは3. ... Bc5とキメてジョッコ・ピアノにします.
ここで4. b4とギャンビットを仕掛けたところが,前掲の形でエヴァンス・ギャンビットというわけです.採用率は4. c3, 4. d3に劣りますが,調べたところ4. b4から始まるゲームは白勝率が47.5%に上るという統計もありました.セオリーがわかりやすいので,みんなもっと指したらいいのにと思います.
エヴァンス・ギャンビットは人名のついたオープニングですね.ビル・エヴァンスと言うとジャズの名手を想起する方が多いでしょう.私も『ポートレイト・イン・ジャズ』はとても好きで,"Some Day My Prince Will Come"は死ぬほど聴きました.未だに春の訪れはないですが,それは余計なお世話なので置いておきます.ビル・エヴァンスはウィリアム・ジョン・エヴァンスと言いますが,エヴァンス・ギャンビットを創造したビル・エヴァンスはウィリアム・デイビーズ・エヴァンスです.
エヴァンスは18世紀から19世紀にかけての船乗りです.1790年生,1872年没という,輝かしい時代のキャプテンの遺産に私たちは触れているわけです.
1825年,エヴァンスはロンドンで1. e4 e5 2. Nf3 Nc6 3. Bc4 Bc5 4. 0-0 d6 5. b4!というゲームを指しています.これは"Naval Intelligence"と呼ばれているゲームで,相手はアレクサンダー・マクドネル.1700年代の終焉に革命が起きたフランスがチェスを牽引していた時代で,ウェストミンスター・チェス・クラブの強豪であったマクドネルはシャルル・マエ・デ・ラ・ブルドネとの死闘でも知られるプレイヤーですが,エヴァンス・ギャンビットの産声に立ち会った人でもあったのですね.1829年には同じくエヴァンス対マクドネルで1. e4 e5 2. Nf3 Nc6 3. Bc4 Bc5 4. b4の形が記録されています.はい,現在のエヴァンス・ギャンビットです.戦績はというとこのどちらもキャプテンが白星を手中に収めており,広く深い64マスの海中に在っても確かな舵取りの能力を伺わせます.
ウィリアム・デイビーズ・エヴァンス船長はベルギーのオーステンデの港に葬られたということです.阿西の係争地として歴史上重要な意義を持ち,今では風光明媚な歓楽地ですが,チェスをプレイする者としてはエヴァンス・ギャンビット所縁の地としても忘れずにいたいですね.話は逸れますが,数学者の知己はこの街をフィールズ賞受賞者のジャン・ブルガン生まれの地として記憶に留めていました.知的活動をインスパイアする風土があるのかもしれません.
本筋に戻りましょう.4. b4はポーンを差し出す手,所謂ギャンビットですので,黒はこれを取るか取らないかの選択を迫られます.結論から言うとこのオープニングでは圧倒的に取る,即ちギャンビットをアクセプトする方が多いのですが,それゆえ後段に譲るとし,まずは取らないラインを少しだけつまみ食いしてみたいと思います.
4. b4は黒のBc5を攻めた手ですので,黒はこの黒マスビショップの対処に追われています.ここで,なぜ黒は3. ... Bc5と出て来たのか,ということを考えると,これは白のfポーンを狙い,引いては白が0-0とキャスリングした際のキングを睨む絶好の位置に射線を張る手でした.
このa7からg1のダイアゴナルを無碍にするのは単純なムーブの損になりますから,引く手を考えると当然4. ... Bb6の一手になります.
エヴァンス・ギャンビット・ディクラインドとなりました.なぜこのムーブがアクセプトする4. ... Bxb4に比べて採用率が落ちるのかというと,ひとえにテンポを失うと考えられているからでしょう.斯くいう私もこの局面では,よほどの出来心がない限りは4. ... Bxb4とすると思います.『据え膳喰わぬは』ナントヤラと言いますが,白の主張だけが通って良い様にやられてしまった気になるじゃないですか(まあアクセプトしたところで誘い受けなんですけど……).
ここで少しテンポ,というこれまた非常にわかりづらいチェスの哲学に言及しておきたいと思います.
チェスを学び始めたとき,ポーンのトリッキーな動きにまず翻弄されるじゃないですか.オープニングの目標はセンター・コントロールで、これは中央を支配することです,とか言われても……ってなりますよね.なんとなく,斜めにポーンを繋げればいいのかなってわかり始めてきたら……なんやねん、アイツのポーン横並びやん(※ポーン・ファランクスは下記の『シシリアン』の中くらいのところで説明を加えたつもりです,よろしければ)ってなるわけです.
今は電子書籍なんかもありますからね,本でも買ってちょっと勉強すっか!アイツに一泡吹かせたろ!ってなわけで活字媒体の力をいざ借りんと意気込み,オープニングの解説を盤駒並べながら見ていて行き詰まるわけですよ.『この手はテンポを失う手である』……
まあ実際のところ,チェスのコンテクストで使われる『テンポ』はけっこう多義性を持っていて流動的に話者の意味したいところがちょっとずつズレたりもするのですが……簡単に言うと①手得,手損か②手の流れのどちらかに似た意味だと思って私は使っています.
手得,手損……これもまた後々の構想に繋がるか否かで損得が変わる水物なので,『手損≠損』という訳ではなかったりして難しいところなのですが(聞くところによると将棋には『一手損角換わり』という,手損織り込み済みの戦型があるらしいじゃないですか!),むちゃくちゃ噛み砕いてドロドロにして言えば,それ以外選択肢がないような手を強制されるのは『手損』で,逆に相手の選択肢を奪った局面に仕向けるようなムーブができればこれは『手得』というわけです.銃を突き付けて『両手を挙げろ!』っていうシーン,映画とかでありますよね.銃を持っている側は『手得』すなわち『テンポを得た』局面で,同時に銃を突きつけられている側は『手損』すなわち『テンポを失った』ところというわけです.このときは言われた通り両手を上げるしかないかもしれませんが,マーク・ハーモンなら多分隙をついて反撃するでしょう.この反撃が奏功するかもしれませんし,手損≠損,というのは先述の通りです.
手の流れ,というのも面倒な概念ではありますが……言うなれば構想通りに進めることが出来ているか,というのはひとつ物差しとしてあるでしょう.たとえばルイ・ロペスの序盤ですが,1. e4 e5 2. Nf3 Nc6 3. Bb5 Bc5 4. 0-0としたところはどうでしょう.
センターにポーンを送り込む,ナイトとビショップを好位置に展開する,流れでキャスリングを済ませる……これはテンポが良いですよね.
今回のエヴァンス・ギャンビット・ディクラインドでは,4. b4に対してこのポーンを取らないとなると引くところが4. ... Bb6しかないわけです.選択肢を奪われた局面になる,ということでテンポを失う,と見るわけですが,これには異論があります.
このラインを提起したのはハイパーモダンの雄、アロン・ニムゾヴィッチです.彼が自著の中で指摘したのは,
「4. b4自体が論理的に良い手ではないので,必然それへの応手である4. ... Bb6はテンポを失うような悪い手ではない」
というものでした.
b4と突く手が悪いという訳ではないと思うのですが(1. b4はオランウータンの名で知られていますが馬鹿にしているのではないと思います……たぶん),チェスの序盤はセンターの制海権巡りになりがちなので,互いにeポーンやdポーンを2マス進めたりしたいですし,相手にみすみすやられるのは嫌です.そんなわけでシシリアンでは1. e4 に1. ... c5とcポーンを突き出すという返しが成り立つのですが,bポーンを早々に2マス進めているとcポーンを2マス進めたときにチェーンが作れずやや不格好になるかもしれません.また黒マスビショップのエクステンデッド・フィアンケットの邪魔になりますし,早々に形を決めたという印象もあるでしょう.
というわけでニムゾヴィッチが言うには,いちど4. b4と突いてしまったからには5. b5としておかないとb4の無理な形が後々祟るので,この手は必要に迫られた手だというわけです.
これはc6のナイトに当たっているので,これを避けなければなりません.ここで5. ... Nd4と出て白のナイトにぶつけ,6. Nxe5とeポーンを抜かせた瞬間に6. ... Qg5!と出るのが味良い反撃だとニムゾヴィッチは指摘します.
これがNe5とg2の両狙いなわけです.Qe5が実現するとNe2+/Nf3+~Qa1のような地雷もある白にとってやりづらい形になります.Ne5をクイーンの庇護がある位置に動かしながらgファイルを守る7. Ng4は良さみに見えますが,7. ... Nxc2+という強襲があります.チェックとルック狙いのフォークなので8. Qxc2の一手ですがクイーンの紐が外れるので8. ... Qxg4と黒は揚々と取りこんで来るでしょう.
なので7. Bxf7+が候補に挙がってきます.
これはb4のill-pawnをb5に進めた成果を出そうという流れですか.実戦では7. ... Kf8/Ke7となりますが7. Kf8には8. 0-0と一手入れて自陣を引き締め,Qxe5に9. Bd5と引いてきた実践例がありますね.9. ... Ne2+ 10. Qxe2 Qxa1と先にルックを失うも11. Ba3+とエクステンデッド・フィアンケットに構えたところでは続くQf3のスレットが大きすぎて勝勢です.
7. ... Ke7にはどうするんでしょう.手を戻して今度こそ8. Ng4でしょうか.これも一例あって,獅子身中の虫を切除する8. ... Kxf7には9. d3と突いてビショップで女王を狙撃します.これを避けながら9. ... Qxb5とbポーンを取りこんで来る手には10. Nc3が女王をテンポよくストーキングする手になりました.
ここまで5. b5を見てきましたが,現今ではこうなれば5. a4となるでしょう.
ここで5. ... Nxb4は面白いと思いますが,本筋は5. ... a6です.以下6. 0-0 Nf6 7. d3 0-0 8.c3 の流れは結構難しいところがありますね.ひとつ確実に言えることがあるとすれば,ニムゾヴィッチが指摘したようにb4を病んだポーンだとは捉えず,これを構築の礎に使って行こうという思想があります.c3を突くのでクイーンサイドのナイトを白はNbd2と使っていくことになります.
5. ... a5はやや古い手です.白からa5と突き出す手を潰していますが,6. b5と引っ掛けられます.6. ... Nd4 7. Nxd4 Bxd4 8. c3 Bb6は残尿感に堪えかねて再びトイレに行くような感じで,テンポが悪いどころの話ではないですが,ここで注目したいのは8. c3ですね.d4が激戦区になるからこそ,c3はessentialな手になるわけですが,これが結果的にb4と繋がってしまうのが面白いですよね.
ところで,4. b4とギャンビットを白が仕掛けた瞬間に4. ... d5とカウンターを仕掛けるのはどうなのでしょう?
今はまったくと言っていいほど見ませんね,この形.エヴァンス・カウンター・ギャンビットとそのままの名前をしておりまして,思い出したように時々人の口の端に上るのですが,正直見たことないです.チェス界のステラーカイギュウのようなものかもしれませんね.
選択肢としては5. bc/ed/Bxd5にBb5なんていうのもありますか?
5. bcはもうコンビニに行って朝食を買おうとしたのにレモンチューハイを籠に入れてしまったとき並に諦めを甘受した手ですね(籠だけに過誤って,やかましいです).
セミオープンになったファイルがdなのかbなのか,これは大差じゃないですか,ヤダー.6. Bb2と渋々フィアンケット組んだりして見るのですが,6. ...Nf6くらいで普通に黒に大きなアドを握られていますし,6. ... Qe7とセオリー通りに素早く動かれるのはゴキブリに素早く動かれるくらい見たくない盤面ですね.
5. edに黒はマイナーピースを逃す手として5. ... Nxb4の一手でしょう.
6. 0-0 Nf6を入れたりして,機を見て7. Nxe5 Nbxd5なんて少し賑やかな盤面になるでしょうか.金駒が中央に集まって行く様から『駅馬車定跡』と呼ばれる定跡が将棋にはあるそうですが,そんな雰囲気すら感じられます.
5. Bxd5も自然な気がします.というのも,黒がa7-g1ダイアゴナルに拘ってギャンビットに応じないところから始まっているので,こちらもa2-g8のわがままを通してもいいんじゃないかという.応手は勿論5. ... Nxb4からでしょう.これはbポーンを食いちぎりながらビショップに当てた先手になりますので.これに6. Bb3と引いて,さてどうかという感じです.
やはり6. ... Qe7や6. ... Nf6と黒に自然な駒組みの権利を与える気がしますが,一応白の主張も通った形にはなっています.
これも早朝レモンハイ側の手ですね.主観ですが,今すぐトイレに行きたい時とか,後ろで子供が泣き出した時以外には採用しにくい手だと思います.
一見5. Bb5はNc6をピンして近藤良さみの良さみ晶子に見えるのですが,5. ... Bxf2+で困りました.6. Kxf2とキャスリングの権利を手放しながら渋々取りますが,6. ... deがNf3に当てながら女王の道を切り開くなんとも味の良い手じゃあありませんか.
e1を除いて死んでいるこのナイト,『君死に給うことなかれ』といったところなのですが,7. Ne1は7. ... Qd4+でルックとキングに二股をかけられ予後不良です.なので7. Bxc6+ bcに8. Re1/Bb2も8. ... efと厳しいですね.
以上,四つの候補手を見てきましたが,黒から仕掛けた割にどうにもすっきりしない形になります.
長々declinedを取り上げてきましたが,この形の本線は4. b4を堂々取り込むAcceptedです.ページを改めて解説できたらと思いますが,『なぜこの形が流行っているのか』の背後には『以前の形が駄目だったから』という先人たちの試行錯誤が隠れていることが当然ながら往々にしてあるわけで,そこへの理解があるのとないのとでは最新形や流行形への造詣の深さも自ずと変わってくるように感じます.
では,続きは後ほど……
【終】